第5章
いちばん苦しかったあの数年、家のことは何から何まで大島莉理が取り仕切っていた。
やがて暮らしに余裕が出てくると、田中尚哉は彼女に無理をさせたくなくて使用人を雇った。けれど、彼の身の回りの品や用事は相変わらず大島莉理が管理し、他人が手を出すことは許さなかった。
使用人の仕事は、一日三食の支度だけ。
アイロンのかかったシャツ、常用の薬……接待で酒を飲むことも多く、胃が弱い尚哉のために、莉理は胃にやさしい献立をいくつも用意した。夜は眠りが浅いからと、安眠用の香も焚いてやる。
田中尚哉はそれが当たり前の暮らしになり、大島莉理も、そこに違和感を抱いたことはなかった。
けれど今は、違う。
彼女は生まれつき世話焼きなわけじゃない。どうして自分が、彼の面倒を見続けなきゃいけないのか。
「胃がつらいなら、薬を飲んで」
大島莉理は田中尚哉の手をそっと外し、ソファに座らせると、熱い湯を注ぎに行った。
その背中を見つめる田中尚哉の胸は、ざらついていた。心配の言葉もない。抱きしめた時間だって、あまりにも短い。
スマホが震える。加藤柚奈からのメッセージだった。
【新しいの買ったよ。好きかな?】
添付されていたのは、露骨に色気を煽る下着の写真。
田中尚哉は一瞥しただけで画面を伏せ、莉理の背後へ回り込む。
「莉理……今夜、ここに残っていいか」
「仕事は忙しいんじゃないの?」
「もちろん大事だ。でも、君のほうが大事だ」
仕事が第一――そういう男だ。けれど「君のほうが」と言えば、彼女が丸め込めると思っている。
「莉理、信じてくれ」
ぎゅっと抱き締める腕に力が入る。最近の出来事は、尚哉にとっても想定外だったのだろう。何かが手のひらから零れ落ちそうな、不吉な焦りだけが胸に残っている。
「愛してる。君だけだ」
大島莉理は、笑いそうになった。笑えるほど、悲しかった。
彼女が病院へ行ったことを知っているくせに、体調を気遣う一言すらなかったのだ。
彼をやり過ごすため、莉理は無理に気力を引き上げ、子どもをあやすように言う。
「さっきスマホ鳴ってたでしょ。会社からじゃない? 行ってきなよ。私も今日は疲れたし」
田中尚哉はじっと彼女を見つめ、しばらくして名残惜しそうに腕を緩めた。
「わかった。じゃあ、家で待ってて」
出る前に、いつも通り額へ軽いキスを落とす。
玄関を出て振り返ったとき、大島莉理が淡い笑みを浮かべていたのが見えた。田中尚哉は、胸の奥の重石がすっと軽くなるのを感じた。
全部片づいたら、ちゃんと暮らせる。元に戻れる――そう信じた。
けれど。
彼の背中が遠ざかった瞬間、大島莉理の笑みは音もなく消えた。
今日ここへ戻ってきたのは、荷物をまとめるためだ。ついでに財産関係も整理して、離婚の準備を進める。
寝室の調度は、どれも彼女が心を込めて整えたものだった。化粧品も、アクセサリーも、田中尚哉が買ってくれた。結婚して七年、彼は頑ななほど「自分で選ぶ」ことにこだわっていた。
それがこの半年で変わった。贈り物は増え、値段も跳ね上がったのに、肝心の温度がない。目で見て分かるほど、「選んだ手触り」が抜け落ちている。
いまなら理由も想像がつく。浮気相手に会うのに忙しくて、彼女のために品を選ぶ余裕などない。たぶん秘書か、誰かに買わせたのだろう。
かつては愛の証だったはずの品々が、いまでは皮肉の塊に見えた。
表に出ているものには手を付けず、自分の服だけを簡単にまとめようとして、気づく。クローゼットの大半が、尚哉に買ってもらったものだった。
触りたくない。
結局、結婚前から持っていた服を二着だけ選ぶ。自分で買った、地味でも清潔なもの。
スーツケースを閉め、ベッドの端に腰を下ろしたところで、山口から電話が入った。
「大島さん。離婚の件ですが、一度お会いしてお話ししませんか」
「お願いします」
……
大島莉理は法律事務所へ向かい、オフィスで山口と向き合った。
山口がフルーツジュースを注いで差し出す。
「ありがとうございます」
莉理は用意してきた離婚協議書を机の上に滑らせた。
条項に目を通した山口の顔が、みるみる硬くなる。
「大島さん……相手に、財産を一切渡さない条件ですか」
「はい」
裏切った人間は、罰を受けて当然だ。
山口は短く答えた。
「厳しいですね」
「証拠があっても?」
「それでもです」
脅しではない。山口は淡々と利害を並べ、現実を叩きつけてくる。
田中尚哉のいまの肩書きと影響力は、昔とは違う。弁護士業界を見渡しても、この案件を引き受けて彼に敵対しようという人間はいない。勝ち負け以前に、依頼を受けた時点で「得るものがない」。
覚悟していたはずなのに、胸が重く沈んだ。
山口は続ける。
「一歩引けば、円満にまとまる可能性もあります。こういうケースは……奥さんへの不満が原因というより、外に女がいるだけのことも多い。揉めずに別れられるなら、相手も応じるかもしれません。ただ、裸一貫は――」
「彼が浮気して、私が譲歩して。それで公平だと思いますか」
莉理の問いに、山口は視線を落としたまま、協議書をそっと押し返した。引き受けない意思表示だ。
「ほかを当たってください」
「山口先生は、この業界でも指折りでしょう。先生が受けないなら、私に誰が見つかるんですか」
彼女が辿り着けたのが、山口だった。三村加奈子の口利きがなければ、会うことすら叶わなかった相手だ。
山口は首を振る。
「申し訳ありません。私では力になれません」
「……そうですか。どのみち、お時間をいただいただけでも助かりました」
山口は、莉理がこれまで何人もの弁護士に断られてきたことを察していた。尚哉の名前を出した瞬間に断られ、面会すら拒まれる――そういう世界だ。
憔悴した彼女を見て、山口は小さく息を吐く。
「完全に手がないわけではありません。証拠集め自体は難しくない。ただ、受ける弁護士がいない。ですが……ひとり、心当たりがあります。業界でも有名な能弁家で、権力を恐れない。誰の案件でも引き受け、勝率もずば抜けている」
大島莉理の胃が、ひやりと冷えた。
強い弁護士ほど、近づくのが難しい。
「深澤先生……お名前は、ご存じですか」
知らないはずがない。
離婚も、金融も、何でもできる。自分の事務所も持つ、万能の弁護士。だが最初から頼る選択肢には入れていなかった。
山口が言う。
「よろしければ名刺をお渡しします。私からも一言、話を通しておきましょう。ただ、最終的に彼を口説けるかどうかは……大島さん次第です」
名刺を受け取っても、莉理の指は動かなかった。電話をかける気になれない。
深澤は田中グループに関わっているが、誰の命令でも動く男ではない。彼は田中辰哉――田中尚哉の兄の専属弁護士だ。田中家の祖父が相手でも、深澤は首を縦に振らないと言われている。
正統な後継者である田中辰哉と、隠し子として生まれた田中尚哉は、昔から折り合いが悪い。
そして同じ理屈で、深澤は自分のことも嫌っているはずだ。
スマホのトーク画面は、五年前のやり取りで止まっている。
会話はほんの数往復。いつも田中辰哉から始まった。「尚哉がどこで飲んで潰れている」「迎えに行け」――そんな内容ばかり。
最後に残っているのは、彼女の返信だった。
あのとき田中辰哉は遠回しに何かを示唆していたのに、尚哉の言葉を聞き慣れていた莉理は、辰哉がわざと仲を裂こうとしているのだと思い込んだ。
【田中尚哉は頭も切れるし努力家です。あなたにだって負けません。きっと成功します。私たちは一生幸せになれます】
正義感に満ちた、根拠のない自信。
いま読み返すと、幼くて、痛々しくて――笑えないほど滑稽だった。
